2012年5月21日 (月)

休館中

Undoukai皆既日食、孫の学校でも眼鏡を準備して楽しみにしていた。
テレビのキャスターはテンションが高かったが、当地(別府)は昨夜からの雨で望み薄だった。
それでも7時過ぎのほんの一瞬のお情け、薄雲に透かされた太陽が肉眼で見えた。

行動していると気が入れ替わる。
娘の手術で孫たちの面倒を見に古巣別府へ、2週間の滞在である。
泉南のイオンモールで昼食を兼ねて一服。
若い人たちに混じって我々と同年代の夫婦も多い。
しかし、服装を見ると皆若い、気を遣っているのが分かる。
「あなたもそれなりの御洒落をしなければ」と言われた。
別府まではフェリーを使った。
運良く格安料金を利用できたので、デラックスルームをお願いした。
旅の直前に兄の病の見舞で疲れ切っていた妻も、ホテルのツインルーム並みの部屋で安堵のひと時だった。
娘の家で孫たちに‘たけちゃん’と呼ばれ歳を忘れる。

孫の運動会を婿の両親と共に観戦、熱くなく寒くなく、末っ子の活躍を皆目を細めて見ていた。
持ち寄った手作り弁当を9人の大一族で食べた。
生徒数が減ったといっても400人ほど、家族まで含めると結構な規模のイベントである。
孫の運動会、娘家族が清川に在住だった時以来である。

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2012年5月11日 (金)

新緑の南部郷

Gwake3ゴールデンウィークが終わり、旅の宿“紫音”は勝手ながら13日から2週間、休館させて戴きます。


ゴールデンウィークには宿泊の申し込みが重複し、5件ほどお断りし失礼してしまった。
家族主義なので、お客さんは前半1組、後半1組、それぞれ2泊3日。
後半は1組と言っても一族3家族6人で賑やかだった。
1日目は“紫音会席”、2日目は我家族も加わってミニバイキングでのおもてなし。
予想された雨も早く上がり、白浜に、龍神に、そして清川では川釣りや卓球と、充分楽しんで戴けた。

Gwake2南部郷、国道を清川へ向かって走ってくると新緑に目を奪われるが、その内異様なほど木々が金色に覆われているのに気がつく。
椎の木の花である。
トンネルを抜けて龍神側に行くとほとんど見られない。
備長炭の原木の馬目樫などを伐採した後、成長の早い椎の木が山を覆った結果である。
枝が張るので炭焼さんからは敬遠されるそうだ。
成長が早い分柔らかく、備長炭に向かないのだろうか。
これだけあったら椎の実を特産物に加工できないものかと思ったりする。

Gwake国道424号の法手見トンネル出側のバイパス工事、青梅の出荷時期に合わせて突貫工事をしている。
仮橋の設置と田んぼの嵩上げ工事、形が見えて来た。
3分を超える信号待ちが無くなれば気持ちも楽になる。
肝心の梅の実は不作だった昨年よりも更に収穫が少ないかとも言われている。
5月の戻り寒波の影響が少ないことを願う。

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2012年4月30日 (月)

ゴールデンウィーク

今年は梅の実の着きが悪いそうだ。
気候が不順で、寒い日が長く、蜜蜂による受粉がうまくいかなかったのだろうか。
お百姓さんは不作でも価格調整ができないし、豊作の時には価格を叩かれる。
梅干しは一次加工で保存がきくが、製造業のように在庫調整をして利益を得れるのは規模の大きな加工業者なのだろう。
その加工業者にも倒産が、
   『梅御殿 兵(つわもの)共の 夢の跡』 か。
農家はゴールデンウィークの最中も梅の木の消毒をし、下草を刈っている。

Sintiku2竹藪に今年は10本も筍が出て来た。
竹を育てて10年くらい、藪を構成している親竹は10数本である。
今年、一気に倍になる。
1本食べてみた。
妻曰く、「ちょっとえぐいかな。土壌のせい?」
もらった筍と差が無いように思うけど、主の性格によるのかも。


Sintiku昨年の台風で壊れかけた玄関横の垣根、友人に頼んで手に入れた竹で修復した。
自前の竹藪がこれだけ増えてきたら、これからは材料が手元で手に入る。
竹藪の多い土地なので、備長炭の空窯を利用して炭にするとか、竹網を振興するとか出来ないものか。


Sintiku3お景ちゃんとその友人が庭を開墾してくれた。
10数年その存在感を主張し、金魚の世代交代を育んできた我が家のビオトープを埋めることにした。
雑木林から腐葉土を運び、5㎡程の畑を2面、2日間で作り上げた。
自然農法を勉強している彼等、手をかけず収穫できる作物を、と苗を多種植えて行ってくれた。
感謝!!

旅の宿“紫音”のゴールデンウィークの始まりである。
若い二人は陰陽料理の師範を訪ねて長崎へ旅立ち、入れ替わりに娘が帰省する。
娘の切符を送った郵便物が届かず、5日目(前日)に手元に、やきもきした。
郵便業務をしっかり休まれると、80円のヤマト便を優先させたくなる。

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2012年4月21日 (土)

昭和の大阪

“紫音”の坂は遅咲きの八重桜が満開である。
梅の木は葉が出始め、小さい実も出て来た。
梅農家は消毒を始め、山間にポンプの駆動音が響いている。

Zouheei子供の頃桜の時期になると、母が大阪造幣局の桜の通り抜けは素晴らしいと言っていた。
戦前、女学生時代を大阪で過ごしたその思い出だったのだろう。
私自身、姫路時代と和歌山時代で関西生活20年弱になるのに、一度もお目にかかっていなかった。



Zouheei219日の朝、週末は雨だと言う天気予報に桜の終末を想ったのか、妻に 「桜を見に行こう。」 と。
妻は近郊だと思ったらしいが、大阪へとの誘いに戸惑いもあったが、ためらいは無かった。
160㎞、2時間のドライブである。



Zouheei3京橋駅のスーパーに車を止めて、夏日手前24℃という暑さ、にじみ出る汗の中を20分ほど歩いて造幣局まで行った。
国道1号線を歩いていたら、桜之宮橋あたりから、すれ違う人が一気に増えて来た。
門につくと、「こちらは出口です。一方通行なので南へお廻り下さい。」 と。
更に500mほど歩いて入口に。


Zouheei4明治16年から始まったという桜の通り抜け、シーズン中の1週間のお披露目である。
局内とは別に河川敷には多くの屋台が並んでいた。
夜間のライトアップが始まったのは昭和26年からだそう。
絶え間ない耳障りな注意放送を聴きながら、新宿駅のラッシュ並みの人の中を進むこと560mの散策だった。
129種、354本といわれる桜、特に小手毬、御衣黄、枝垂桜、法明寺などの品種に魅せられた。

イオンがモールと組み合わせた近代的な店舗を全国各地に展開している中に、昭和の大規模スーパーのはしりを京橋のダイエーに見た。
古い建物を手入れしながら、商品企画に苦渋し、何とか時代について行こうとしている、そんな雰囲気である。
子供のころから共に育った地元の人達が今も馴染み客なのだろう。
昼食を食べた中華レストラン、恐らく開店当初からあるのだろうが、我々の様な高年のお客さんが大半だった。
一人客も何人かいたが、相席させることもなく、ゆっくり食事をさせていた。
12時の時報と共に、近郊のサラリーマンがドッと入って来た。

食品売り場で食材を仕入れて、3時間の駐車料金を消し、帰路についた。

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2012年4月15日 (日)

忘れていた花

Syunranシュンラン(春蘭)、前回花を見てからもう10年になるだろうか。
気が付いたら、玄関前の植え込みにシュンランの花が2つ背伸びしていた。
淡緑色の3枚の花弁、背丈15㎝、葉は細く長い。
一見地味で目立たない。
花言葉も‘ひかえめな美’、‘きしゃな体で精神はタフ’
清楚な姿から刺身のつまにも使われると聞いた。
良く観察して見ると、葉は一面に生えている。
花が咲く条件があるのだろう。

里の4月の行事、9日が小中学校の入学式、14日は雨上がりの清川球場で清川少年野球大会。

先月末、法手見トンネルの迂回路がその日に限って工事のため、島の瀬ダム廻りだった。
結果、南部駅まで娘を送るつもりが、列車に間に合いそうもなく田辺駅まで送ろうと言うことになった。
前方から車が来たので離合に気をつけようと速度を落とし、運転者を見たら娘が小学校時代にお世話になった先生だった。
車を止めて窓越しに、「今日の夕刊に異動が載るけど、清川を去ることになりました。」
暫くそのままの状態で、お互いにお別れの言葉を交わした。
本当に偶然だった、普通道での離合であれば瞬時であり、気がつかなかったかも。
娘が東京へ発つその前日のことだった。

観光庁が実施している宿泊旅行統計調査というのがある。
4半期毎に実施されており、小規模施設は無作為抽出の限定調査である。
直近(10~12月)では、全国平均の客室稼働率は45%、大阪70%、京都55%、和歌山30%という数字が出ている。
ちなみに“紫音"は10%を切った。
この調査はコンサルティング会社を使って宿泊客数と客室稼働率の推移を調べている、同じような調査が県の依頼で町役場も年に一回実施している。
数字がどう使われているのか、総労力の割に合わない調査の一つか。

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2012年4月 7日 (土)

桜と積雪

04sakura1日から1週間休ませて戴いた。

清川は吉野桜が満開。
レンギョウの黄色、花桃のピンク色と競い合っている。
一方、島の瀬ダムは紀南一の桜の名所になりつつある。



04fuji東京への道中、再度御殿場アウトレットへ。
インターの出口のホテルに宿泊、目の前からシャトルバスに乗る。
入口には外部駐車場や都心からのバスが常に10台以上駐車していた。
200店舗以上という広さ、ファッションが中心、日曜日とあって人出は多かった。
4時に入場して8時まで買い物に付き合った。
夕闇に富士山のシルエットが美しかった。

2日、娘の引っ越し。
都会の田舎だが、歩いて行ける範囲に大型スーパーやモールがあり、清川では考えられない利便性。
3日は暴風雨の中、娘の生活用品の購入に近くのモールへ出かけた。
買い物を済ませて、夕方マンションの前に車を止めたが、強風で車が左右に大きく揺す振られる。
車外に出ることが出来ず、待つこと10数分、やっと荷物を運び出した。
ニュースでその凄さを知り、“紫音の丘”にも何がしかの被害がと心配になった。

04yuki5日、中央道で松本ICまで走り、そこから高山経由で下呂まで行った。
安房峠が近くなると雨が霙となり、そして雪に。
妻が運転していたが、轍も消え道路は完全に積雪。
タイヤが新しかったので何とか超えれたが、途中に何台か立ち往生していた。
高山ではお蕎麦を食べたが、外人観光客が多数街並みを散策していた。

04gero下呂温泉
何年振りかの温泉、シーズンオフなので独り占めだった。
いでゆ朝市と合掌村、古い日本に気持ちが安らいだ。

白い岩々と青緑の渓流の飛騨川を見ながら美濃まで走り帰路についた。
走行距離、1,500キロのドライブ。

案の定、先日の強風で裏木戸が倒れていた。

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2012年3月28日 (水)

犬も歩けば

H24sakura『桜花 梅花の遅れ 気にもせず』

吉野は未だ蕾、早咲きの濃いピンクが“紫音の丘”の坂を彩り始めた。
田辺への山道では山桜が満開。

      4月第一週、旅の宿“紫音”は休館します。

Umekouen和尚の発案で森林組合の炭窯の上の高台に梅の木を植えたと言う話は聞いていたが、苗を植えたばかりで今年は花もそこそこだろうと敢えて足を運ばなかった。
数日前道ですれ違った和尚、「梅公園見て頂けましたか。遊歩道も良くなりましたよ。」
未だと言う答に若干不機嫌顔。

日曜日の朝晴天で爽やかだったので、馬目樫の繁る遊歩道を散策しながら梅公園まで行ってみた。
“紫音”から10分。
千躰地蔵の近くのけもの道を入口に、南に延びた尾根道の先に広がる千坪程の平地に梅の苗木が植わっていた。(下の写真)
東西南三方向の清川の里が一望できる高台である。
“紫音”の丘、千躰地蔵、梅公園、そして石倉公園、自然散策のスポットである。
いつの日かこの丘全体が清川里山公園になるかも。


ブログに友人たちを襲う病魔について書いたらひと騒動あった。
記事はガンで亡くなった炭焼さんを追悼したものだった。
並列引用した人の個人を特定したつもりは無かったが、たまたま自分のデータベースと一致した人が、見舞いに行くことになったため、誰が知らせたのかとクレームがついた。
表現は難しい。

ブログに付属して掲載しているウエブページの旅の宿“紫音”物語、その中の一章が突然ブレークした。
ある人がたまたま検索した時に、10数年前の記事に話題のタネがあったのだ。
数日間ツイッターでやり取りされたようだ。
呟かれていること、推測は出来るが真実は知る由もない。
グーグルなどの検索エンジンとキーワードのデータベース化が進歩しているので、検索によって簡単にブログの語句が衆目にさらされる。
四半世紀前はコンピュータの記憶装置も高価だったし、処理速度も遅かったので検索用の人工知能の開発に四苦八苦していた。
それをインターネットでいとも簡単にやってしまう、恐ろしい時代である。

記事の内容を読まずに表面的な事象だけで騒ぎ立てる、インターネットの手軽さ故の悪の部分である。
仕組みは後へは引かない、今後も表現には充分注意したい。

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2012年3月20日 (火)

東京と言えど

Hauyuki清川の例年になく遅咲きの梅の花もピークが過ぎた。
満開の梅畑に雪(3月12日)







Nagoriume彼岸になごり梅(3月20日)

  『満ち足りて 空へ空へとなごり梅
        雅を惜しむ 天の羽衣』




このところ立川、八王子方面に行くこと多し。

今回は羽田からリムジンで新横浜へ行き、更に新横浜から八王子まで横浜線に乗った。
40分620円、中央線の新宿~八王子くらいの距離か。
昔は中古電車が割り当てられ、チョコレート色のガタガタの電車が走っていたが、今は違う。
沿線には新興住宅が立ち並び大型ショッピングセンターも、淡いグリーンラインの郊外通勤電車で快速も走っている。
ところどころに畑地が残っており、中には植えられた数十本の梅の木が満開の花を付けている所もあった。

子供の頃高尾山、奥多摩ダムなど一日がかりで遊びに来た。
相模湖では大学のボート大会が開催された。
大学時代、内定者懇談会で四谷で飲んで新宿で降りるはずが寝過ごし高尾まで、戻る電車も無くタクシーで帰って来たことがあった。
若いころ、青梅の電気メーカーにコンピュータのソフト作りに半年近く常駐したこともあった。
八王子のベンチャー企業に、今ではパソコンと化したマイクロコンピュータの出始めのころ、購入設備の検収にたびたび通った。
すべて都心から放射線状の電車移動だった。

そんな東京の奥地に今回は横浜から環状線で訪れた。
末娘の進学に伴う宿探しに。
せっかくの機会だからと、町田で姉と待ち合わせ。
20年前、やはり東京へ出ていた長女と待ち合わせた場所だった。

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2012年3月11日 (日)

生きたナマコ(海鼠)

Namako釣りが趣味の友人がナマコ(海鼠)をくれた。
20㎝ほどある‘つちのこ’みたいな一物。
「グロテスクね。」 と言う妻、娘が一目 「なんかかわいいね。頭はどこかな?」
いずれにしろ容姿からは口にしようかとは思えないが、先人の挑戦心に感服。

スーパーの売り場にある下処理したものは見たことがあるが、命ある個体をどう処理したもんか悩んだ。
インターネットを検索すると、写真入りの丁寧な処理説明を見ることができた。
頭としっぽを切り、腹を開いて内臓を洗い出し、塩もみして薄切りに、その通り実行した。

ここから先は普段通り、三杯酢、大根おろしで賞味。
淡白な中に、若干の磯の香り、鮑の様な歯ごたえ、先人が見つけ出した酒の肴である。
日本では生食、中国では干物、そして内臓の酒盗は‘このわた’。
我が一族は金沢出身だが子供の頃伯父が‘このわた’を肴に燗をつけたお酒を美味そうに飲んでいたのを思い出した。

ナマコは冬が旬である。

Umenosato3旬と言えば、清川の梅畑は白一色。
今年は半月遅れだが、一段と奇麗だ。
花は月末まで持ちそうな感じである。

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2012年3月 6日 (火)

啓蟄の雨

Umenosato啓蟄。
久し振りにまとまった雨が降り、一晩で80㎜を越した。
気温が上がり、霧が発生し、窓の外に露が着いた。
夜半の春雷に宿泊していた知多半島の住職も驚いたようで、感想ひと言。
 『雷鳴って春を告げる。緑と梅花と青い空、今日も一日楽しい日となりそうだ。』

国道424号の法手見トンネルの迂回路が警報で通行止めになり、半日ほどダム廻りの通行を余儀なくされた。
住み着いた頃、南部川村は信号機が一つも無かった。
今は10個近くあるだろうか。
旧村内に正規の信号機は3つだが、片側通行規制の信号機が5、6個ある。
昨年の台風被害の後遺症である。
最も長い信号機は4分近く待たされる。
勝手知ったる地元の人は双方のデッドタイムに入ると、信号が赤であっても1分以上前にスタートを切る。
青になるのを待っていると、後ろからクラクションでせっつかれることもしばしば。
お役人は現状を見ずに規則だけで縛る。

Umenosato2下(しも)は梅の花が満開である。
寒気で抑えられていた蕾が一気に開花した感じである。
今日はつかの間の晴れ間、里中が淡い白い花と香りにに包まれる。
清川は5分咲き程度なので今週末に見ごろになるのでは。
(写真は“紫音”の前の梅林)

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2012年2月29日 (水)

梅祭り前後

Umematuri写真は清川梅祭りの餅撒き風景

久し振りに宿泊客が続いた。

備長炭を取材に来たABC‘ココイロ’の撮影スタッフ、そしてリピータが四組の一週間。

三度目の若いカップルは昨秋産れた赤ん坊を連れて来た。

梅祭りの神事の宮司さんは友人のカメラマンと共に常連さんと化した。
「お酒は神様にお会いする前に身を清めるもので、酔うとその機会が生れます。」
神職の話をじっくり聞くことができた。

梅祭りを楽しみに来た景ちゃん、「久し振りの‘ひとり紫音’、今回は赤ちゃん連れの御家族と御一緒で癒されました。いろいろなメンバーとの再会に抱腹絶倒の連続でした。」

Waruta02そして輪留田さんは一泊追加して、三泊、125泊目となった。
(漫画は輪留田さん)

胃を手術したばかりの輝さんが元気な姿を見せてくれ、「わしは食が細くなってしまった。」 と言いながら薄味が胃に優しかったのか、残り物を全て片づけてくれた。
満天の星空、天頂に近い東方に赤い火星がひと際目立った。

ふる里道場でみっちり二胡の練習、和尚が「輪留田さんの二胡が聴けず残念、次回来られるときは事前に連絡してください。」 と電話してきた。
道場の外回りを塗装していたペンキ屋さんが足場の上で聴き入っていた。

二日目の2時頃菓子パンをぶら下げて戻って来て、「お食事処が閉まっていて食べ逸れてしまったよ。」 と。
夜集まって来た里の人達が呟く、「あそこは食う分には良いが、飲むとぼったくられるんだ。」
里の人達の観察は厳しいが、商売する方からは常套なのか。
翌日再挑戦、しかし‘仕度中’、縁が無かったかと帰途についた。

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2012年2月24日 (金)

清川梅祭り

 2月26日(日) 12時~  清川球場駐車場

             餅つき体験、おかいさん、しし鍋、まぐろ解体
             ふるさと産品、ぜんざい、ちらし寿司販売

           13時~ 式典 パイロット石庭‘芳徳園’

           14時30分~ 餅撒き

   天気予報は晴れ、気温は9℃と肌寒い

   『梅一輪 濡らす雫に 春の声』

 

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2012年2月12日 (日)

食道楽ではないが

Hujisan所用があって、一週間ほど東京に滞在した。
今回は立川、昔は郊外というイメージだったが、大都市そのものである。
(写真はホテルの窓から見た富士山)
東京の郊外はこの手の商業地帯と住宅地がモザイク状に有り、それを多種の交通網が結び合わせている便利社会だ。
意外だったのは世田谷など住宅地の駅前商店街が活気があることだった。

Menyutv行きがけ、御殿場で妻と食事。
和食の店だが、カウンターには液晶画面のメニューが在るだけ。
店員さんは使い方の説明をして戻って行った。
絵を見ながら指示通りタッチすると、奥で 「○番さん○○御注文!」 と板前さんの声。
お茶の追加も画面指示、店の雰囲気は明るかった。


大学時代のゼミのメンバーと再会した。
約半世紀のギャップがありながら、混雑した店のロビーで一人一目で認識できた。
かっての酒豪が酒を絶って、中華料理での昼食会、話題は健康と趣味に終始、誰かの川柳にあった通りだった。
入院経験者が多い中で、病院と縁の無い生活ができてるのは田舎生活の御利益か、話題はそこにも向けられた。
一方、みなべ町が台風被害にあったことはローカルな出来事だったようで都会の人は御存じなかった。
皆さん非常勤であれ現役のサラリーマン、何だかんだ日本の企業は面倒見が良いようだ。
お互いの消息に安心し、再会を期待して別れた。

中学時代東京へ出て以来都会生活を指導してくれた親友にも会った。
昨夏は“紫音”にも泊りに来てくれた。
新宿西口交番前、学生時代からの待ち合わせ場所である。
週末の都会は人に溢れるということで、レストランを予約してくれていた。
インエフルエンザで奥さんが来れなくなり、当方の妻と娘の4人での会食となったが、ワインを飲みながらのイタリア料理、久し振りに酒に飲まれてしまった。

姉兄弟で親族会議、連れを交えて2時間ほどまじめな話し合いをした。
近くのレストランでフランス料理、リクエストに応じたピアノの生演奏を聴きながら、家族時代とは異なる不思議な集団で楽しいひと時を送った。
そこで出た言葉 「我々は伴侶でもっているよな。」
感謝なのか、ごますりなのか。

一年分の食の贅沢を、一週間で味わったと言ったらすかさず切り返しが、「その‘一年’は過去に適用ね。」
一月ほど滞在した娘の荷物が多いのと、交通費を節約しようと、今回は愛車での往復となった。
しかし、不案内な繁華街の狭い路地でポールに気がつかずサイドに擦り傷、修理代で節約分は相殺、世の中うまく収支している。

帰ってきたら留守番電話が20本ほど、妻が里の人にお詫びの電話をしたら 「“紫音”さん夜逃げしたのかと思った。」 と言われた。
冬場は‘大勢に影響無し’である。

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2012年2月 3日 (金)

ユートピアを求めて

Yukinohana『立春に 梅花と見れば 雪花なり』

みなべ郷は梅の花の季節に入ります。

☆みなべ梅林は1月28日開園 
  「南部郷、梅の花一目百万本、香り十里」
☆岩代大梅林は1月28日開園 
  「岩代の海岸地帯の丘の上、見渡す限り梅の花大パノラマ」
☆田辺梅林は2月3日開園 
  「田辺奥地、石神の山一面に梅の花」
☆清川の梅祭りは2月26日(日)清川球場(過年はふるさと道場でした)

いずれの梅園も主行事は建国記念日頃。
ただし、今年の梅の花の開化は遅れそう、花の見ごろは2月中旬以降か。
2月の前半、旅の宿“紫音”は休館します。



昨年の秋、姪の結婚式で静岡に行った。
主賓として一平さん、‘ゴジカラ村’の村長さんが出席してくれた。
姪はそこの幼稚園に通っていた。

ひと昔前、長久手町に住む弟が面白いところがあるからと、南数キロのところにある緑地に連れて行ってくれた。
この地域は愛知万博を機会に名古屋市のベッドタウンとして発展したが、自然も多く残っている。
雑木林の中に木造手作りの質素な建物が数棟建っていた。
そこが‘ゴジカラ村’、老人ホーム、幼稚園、多世帯住宅などまさに福祉の森である。
老人と幼児の交流、多世帯家族、住民による奉仕活動など試行錯誤している。
そこには‘閉じた施設’ではなく、‘地域の絆’があった。
農園や体験宿泊施設など充実してくれば観光資源にもなる。
思わず、こう言う所で老若男女が集うオープンテラスのカフェでもやれたら良いなと食指が動かされた。
 (参照) ゴジカラ村ホ-ムページ

一平さんは、‘ゴジカラ村’の経営で手ごたえを得、この延長線上に未来型福祉社会があると考えたのだろう。
昨秋、長久手町を福祉社会の理想郷(ユートピア)にしようと町長選挙に立候補し、多くの支持を得て当選した。
そして今年の一月をもって長久手市となり、一平さんは市長になった。
『・・・日本は戦後、飛躍的な経済成長を遂げ、モノの豊かさを手にしてきましたが、その一方で、人と人をつなぐ‘絆’を失ってしまいました。効率や合理性ばかりが重視され、人同士がじっくり心を通わせ、共に力を合わせて生きていくという価値観が置き去りにされてしまったのです。長久手市のまちづくりは、まず人々の‘絆’をつなぎ直し、この長久手に集う人やここにある施設などの力を十分に引き出して、みんなが心豊かに、生きがいと思いやりを持ってお互いに支え合える“日本一の福祉のまち”を目指していきます。・・・・』(長久手市ホームページより)

1954年に清川村は他の2村と合併し南部川村に、そして半世紀後南部町と合併しみなべ町になった。
気張った町村合併で僻地の過疎化が進み福祉社会と逆行して行くのと違い、住民主導の自然体で発展する自治体は強い。
大阪も面白いが、愛知県、名古屋市、そして長l久手市も注視しておきたい。

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2012年1月27日 (金)

ボリビアからの神父

Kurahashi3ボリビアからのお客さん、倉橋神父。
駅で迎えると第一声 「お招きありがとうございます。」

別府時代の‘糧の会’を通しての妻の友人、30年数年前にボリビアへ渡った。
ニューヨーク、サンパウロ経由で30時間、まぎれもなく地球の裏側である。
前回来られたのが2000年3月、3度目の来訪である。
忙しい身でありながら活動的、今回も東京から新幹線で日帰りの旅だった。
加山雄三と同年代、元気そのものである。

ボリビアは国土面積が日本の3倍。
原住民は疫病やスペインの侵略から逃れるために富士山並みの高地へ住むようになった。
もちろん鉄道どころか、まともな舗装道も無い。

警察官で月給2万円程度、7人家族だと1日一人100円での生活。
大家族なので子供たちは奉公に行くか、観光客相手に大道芸をして物乞いするか。
15歳くらいになって夜間教育を受け始める。
神父は学校教育をおこなう他、食料米の配布、放棄乳児の埋葬、子供たちへの給食提供など奉仕をしている。
子供たちの写真を見せてもらった。
悲惨な生活にも拘わらず、何故か顔に凛々しさがあり、明るかった。
真今を生きる、今日を楽しむ。

炭焼の熊ちゃんが『戦争拒否7人の日本人』という本を持って訪ねて来た。
蔵書を炭焼作業の合間に読み直したら面白かったと。
神父は太平洋戦争の裏事情について興味を持っていたので話が盛り上がった。
勝てない戦争に何故挑んだか。
今もって日本の外交のトラウマになっているのでは。

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2012年1月21日 (土)

季節の折り返し

Ryuujin大寒
季節の折り返しである。(写真は龍神)
立春も間近い。
しかし、これから半月くらいが一番寒い時期である。

『春は名のみの 風の寒さよ
  谷の鶯 歌は思えど
   時にあらずと 声も立てず
    時にあらずと 声も立てず』(早春賦)


Akiyama2ふるさと道場が美術館に変身?

日本画家秋山女史の絵画が持ち込まれた。
F50号の作品が約10点、‘すきやねんネパール’シリーズである。
ネパールの母、ネパールの父、牛飼いなどネパールの風俗を描いた大作である。
老い先を和尚に託した。


Akiyama1廻りの木彫地蔵とも適当に調和している。
地元新聞社も取材に来てたので、清川の梅祭りなどに合わせこの春は見物人で賑わうことだろう。
今日は新宮の鍼灸院による月1回の鍼の日、お年寄りが三々五々上ってくる。
思わぬお年玉に目を見張ることになる。

秋山女史はお香の好きなお孫さんなど3人で宿泊してくれたが、帰りしなに 「前に来た時(10年昔?)肝臓が悪いとお聞きしてました。今は体調が良くなったり悪くなったりだそうで。お体をお大事に。」 と心配してくれた。
何の行き違いかいつの間にか病人にさせられてしまったが、偽りのない健康人である。


もうすぐ梅の花の季節、白いベールと優しい香りが里を包む。
☆みなべ梅林は1月28日開園 「南部郷、梅の花一目百万本、香り十里」
☆岩代大梅林は1月28日開園 「岩代の海岸地帯の丘の上、見渡す限り梅の花大パノラマ」
☆田辺梅林は2月3日開園 「田辺奥地、石神の山一面に梅の花」
☆清川の梅祭りは2月26日(日)清川球場(過年はふるさと道場でした)

いずれも花の見ごろは2月中旬以降か。

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2012年1月15日 (日)

正月3題

Kankuro『喪中でも 年賀欠状 寒中見舞い
      消息気にする 友に感謝』
母が亡くなったのが昨秋だったので、喪中葉書で年賀状を失礼した。
しかし、出せなかった方からも多数の年賀状を戴き、寒中見舞いを出した。
喪中欠礼を出した方からも、災害後の消息を訪ねて寒中見舞いが来た。
結局例年並みに年始の挨拶状をやり取りしたことになる。
昨年年賀状は止めにすると宣言した方からも戴いた。
有難いことである。


『漢クロで 暇を潰して ボケもなし
       字の下手さ加減 相も変わらず』
商品をゲットしようという気持ちは余りない。
暇潰しと奇麗な文字を書く訓練のために漢字ナンクロをする。
500程のマスに6~70個の文字で100程度の熟語を作る。
100問程の問題にはかなり重複した熟語が出てくるのでヒントになる。
また、一文字違いの似た熟語も多い。
★が3つまでは時間潰し、4つ以上は挑戦の気持ちである。

黒マス捜しは2度楽しめる。
黒マスにはあるルールがあるので、それに気付けば難しくはない。
また漢クロと並行して回答してゆけば早く黒マスを見つけることができる。
ノーヒント(或いは少ヒント)は推理の楽しみがある。
1,2日間全くの暗中模索、イライラすることもある。
諦めかかった時に、閃いた漢字を一つ二つ当てはめると解け始める。
誘導されるように回答範囲が広まる、その妙味がたまらない。
最後の数個が解らずほおっておくと、或る時パッと閃いたりする。



『迂回路に 振り回された 後遺症
          娘旅立ち 物足りなさも』
子供が油画の補講で江戸へ旅立った。
夏休みに続いて“紫音”の丘は二人だけの生活に。
台風災害による路線バス不通で、通学の送り迎えの4ケ月余、毎日のドライブは1万㎞に及んだ。
1月くらいは解放される、そしてさらに半月後に卒業。
災害ストレスが無くなり、やっと何かしようかという気持ちになってきた。
`喫茶去’のリフォーム、まずは大工仕事から始めた。
工房、ギャラリー、卓球場などの多目的ルームである。
強風で壊れたガゼボの修復も待っている。
そして春に備えての庭仕事。
やることだけは沢山ある。

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2012年1月 9日 (月)

正月の来訪者

Manngetu元旦、おせち料理を食べ終わったころ、遊漁船の奥さんから電話が入った。
「鯛を釣ったので鯛しゃぶでもしませんか。“紫音”でゆっくりしたいの。お邪魔じゃない?」
1.2kgを超す天然鯛が2匹、見とれてる間もなく急いで1匹を捌いて鍋の準備にかかった。
囲炉裏の炭火での鍋料理、久し振りである。
昼過ぎから食べ始めて、最後の雑炊まで、4時間かかった。
更に夕飯には娘にあらを塩焼きにし、酒のつまみに酒蒸と刺身、鯛を堪能した元旦だった。
ゆっくりした元旦に感謝してくれたが、我々はもっと感謝!!

消息が途絶えていたかっての常連客から電話があった。
「いろいろあって御無沙汰してました。近々行くからよろしく。」 
植木屋を商売にしており、当時庭から雑木林を見ながら、遠方の山が透けて見えるように少し木を間引いたら良い、炭焼さんに切ってもらったらと対象の木々に印をつけて帰った。
その木々が今や切るまでもなく成長し、幹の間から山々が見えるようになった。
7年振りくらいだろうか、再来を楽しみに。


初めての宿泊は大阪からの御家族。
体の弱い人がいるので、辛い物、油物、青魚などは厳禁という制約がある。
感心するのは家族が食生活を合わせていることだ。
極力要望に沿うように調理に気をくばった。
「寒さを忘れる温かいもてなしをありがとう。長いものお寿司、しそ梅のおすまし、柿なます、などどれをとっても美味しかったです。枇杷の葉も集めて頂いてありがとう。」
そう言えば梅畑の周りにあった数十本の枇杷の木は猿を防ぐためにすっかり伐採されていた。

そして常連の二人連れ。
知り合った農家や炭焼さんを訪れ、夜遅くまで話し込んでいた。
また、御老人にお願いして昔話を聞きながら藁草履の編み方を教わって来た。
「昨年の8月以来、念願の清川に来させてもらいました。心が安心する“紫音”のご飯。心も体も調子が良くなり、病み上がりでしたが完治していきました。・ ・ ・ ・」
精力的な2泊3日、帰りしなにもっと自分を磨きたいと言いながら離れの掃除をしてくれた。

区の正月例会、お客さんがいたし、喪中で穢してもと思い欠席した。
区長から班長を引き受けてくれないかとの電話。
「客商売なんで休祭日の行事などで迷惑をかけることになるんで。」
と取りあえずはお断りを。

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2012年1月 1日 (日)

2012年元旦

Nousagi2012年が明けた。
天気曇り、気温2℃、日の出は見られない。
テレビではダイヤモンド富士を生中継している。


庭のベランダの下に野兎が潜んでいた。
付近に住み着いているようで、夜、車のヘッドライトの前を跳び跳ねることが多い。
道路に沿って一直線に逃げ、途中でさっと藪に消えた。


30日におせち料理の一部を手伝った。
定番になっていて、叩き牛蒡、田作り、そして伊達巻。
孫達からの要望もあって逃れられない。
いつもおやつ代わりに食べる胡麻をたっぷり料理に使った。


そこで胡麻談義。
煎り胡麻を小匙一杯分くらい手のひらに取って食べる。
噛むと数粒づつ押しつぶされる、噛むごとに押しつぶされる数が少なくなる、その感触が病みつきになる。
全て粉になったと思われる頃、白湯をごくん。
たまに歯の根元に一粒残ったりする。
胡麻に含まれるセサミンが不老長寿の元とサプリメントを宣伝するメーカーがある。
そんな事とは関係なくおもっぱら菓子代わりである。


胡麻の値段はピンからキリまである。
1グラム1円程度から5円程度まで、特に京胡麻、金胡麻などが高い。
何が違うか高いのを食べたことが無いので良く解らない。
しかし、安いのでも産地や煎りの深さで味が異なる。
当地では胡麻に梅味をつけて売られている。
産直店で試食用に置いてあるが、塩分があるので食べすぎは無用である。
ふりかけとしてご飯と一緒に食べると良い。

江戸時代には小麦粉の胡麻を混ぜて焼き菓子を膨らませたそうだ。
‘胡麻菓子’が‘誤魔化す’の語源の謂れ。
胡麻煎餅や胡麻饅頭など胡麻を使ったお菓子も多い。
胡麻油、胡麻味噌など調味料、そして胡麻豆腐。
味醂干し、田作りなどは胡麻が無ければ味気ない。
今は胡麻の原料は大半が輸入で、国産は鹿児島県産くらいで1%に満たないそうだ。


娘が胡麻の匂いを嗅ぐとお父さんを思い出すと言う。
孫が遊びに来ると手のひらを出して一杯欲しいとねだる。
我が家では公然の事実、誤魔化せない。

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2011年12月25日 (日)

蘇った一世紀

Ryokoukaban1900年代初め、或る陸軍中将が愛用していた旅行鞄。
兄嫁の実家の押入れから出て来た。
天津の芙蓉ホテルや北京の承徳ホテルなどのワッペンが貼ってあった。
キーワードが‘石川県出身’、‘台湾勤務’と祖父と共通するので愛着を感じた。
古い物に興味のある娘、下北沢の小道具屋でそういう鞄に見入っていたことがある。
何とか再利用できないものか、美山の家具職人にお願いしたらキャスター付きのキャリーバッグに変身した。
勿論材料は自然木である。
今度は油彩画材が納めれるように中を改造する。
蘇った一世紀、古くて新しい旅行鞄である。


テレビの水戸黄門がオーラスに。
宿を始めて初期の頃、うっかり八兵衛(高橋元太郎さん)と格さん(伊吹吾郎さん)が前後してそれぞれ別のテレビ番組の取材で訪ねてくれた。
   旅の宿“紫音”物語 第七話 他力本願
二人は40年ほど前、東野黄門の時に前後して登場し、西村黄門へ引き続き出演していた。
歴代黄門の中で放送回数も一番多く、20年間くらいになるだろうか。
自分も良く視ていた時代である。
取材の後、雑談する時間も多くあり、友人たちが訪ねてくれた感じだった。


Hatuyuki今年最後の宿泊のお客さん。
3年振り、8回目の宿泊、いつもこの時期に来られる。
きっと奥さんの誕生日、クリスマスイブになると重複して思い出してくれるのだろう。
こんなにゆっくりしたことは久し振りと言って帰られた。

そのクリスマスイブは今年の初雪。
翌朝、清川の里はうっすらと雪景色に変身した。

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2011年12月14日 (水)

物も人も再利用

Siboridaru玄関に人の気配を感じると、炭焼の熊ちゃんが神妙な顔をして立っていた。
訳が有って清川を去った炭焼さんの置き土産、燃やすには忍びないので、使い方を考えてくれないかと。
窯に行ってみると、その炭焼さんが前職の染色で使用していた絞り用の樽、その数、数十個置いてあった。
長年職人さんが使用し、染料の染みついた5㎝くらいは厚みのあるヒノキの樽、取りあえず庭に植木鉢替わりに置いてみた。(写真上)


下から70代のご婦人が上って来た。
宿泊していた常連の女性と顔見知りだったので、じきに大きな笑い声が聞こえて来た。
「この笑い声が元気の素なのよ。」
書道、絵画、写真、民謡、旅行など多趣味である。
農家の仕事は嫁に引き継ぎ、「今が一番楽しい。‘真今’が。」
羨ましい限りである。


Yamawaki広島からの三人家族、定年を迎えこれまで趣味でやっていた馬目樫や梅の木の手作りスプーンを生涯の仕事に。
「会社勤めが終わってしまうと、何か世間様に後ろめたさを感じるんだ。」と。
しかし、天然木の加工が評価されて、カバンの取っ手などの新しい引き合いが来ることで光がみえてきたそうだ。

同席した熊ちゃん、「俺、足腰不自由だけど、入院治療なんて考えたことが無いよ。山へ行かない日々を過ごしたら炭焼には戻れないし、文章も書けなくなると思うよ。文章は肉体(魂)の体験から生まれるんだ。」
肉体は入れ物、魂がそれを借りて活動するんだから現状の器で‘書くために’今精一杯頑張るんだ、という人生哲学。(木の国在住記
いい加減な文章を書いてる自分が恥ずかしい。

前述の親子に絞り樽の話をしたら、早速見に行って再利用のアイデアが、何個か車に詰めて持って帰った。
次回来るときに新しい製品を持参することだろう。
これまでの作品の一部が“紫音”のギャラリーに展示してある。(写真下)

きしくも、今日65歳までの再雇用をうたった法案のニュースが流れた。
新しくなく古い施策である、再利用は難しい。

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2011年12月 5日 (月)

戻って来た日常

Hotemikai2_212月1日15時、国道424号法手見トンネルが通れるようになった。
3ケ月振りの解放感、同時に溜まった疲れがどっと出た。



トンネル出口から大きく右にカーブし、500mくらいの片側交互通行の迂回路は二つの信号があり、最大5分程度待たされる。
しかし、島の瀬ダムの対岸を通る4㎞の迂回路に較べたら天国と地獄である。
完全復旧は国道改良工事に合わせるとか聞いたので10年先か。

これまでの復旧工事中はやむを得ず面谷トンネルから芳養経由で南部を往復していたが、心身のストレスも極限状態に、そしてやっと解放された。
ありがたいことで感謝しなければならないが、現在の土木技術からしたら3ケ月は時間がかかりすぎた。
バイクや自転車で通学している高校生は大変だったと思う。

自分自身、この間に田舎の山道を走りまくった距離は5,500㎞、なんとゆうに日本一周した距離になる。
負荷を考えると、本当に日本一周をしてみたかった。

姪の結婚式で静岡へ行って来た。
徳川家所縁の浮月楼での披露宴、さすが料理はすばらしかった。
新大阪へ出て新幹線を利用したが、改めて紀勢線の乗り心地の悪さと遅さを実感。
2週間後に今度は母の納骨で鎌倉へ行く予定。
飛行機で白浜から羽田経由となるがその料金の高いこと。
日本列島の袋小路である和歌山県、台風被害でクローズアップされた道路を含め交通課題は多い。

お客さんはぼちぼち再来客が来始めた。
道路事情が戻り、営業が出来るようになったが、改めて宣伝はしないつもり。
あとは自然態で ・ ・ ・ ・ ・

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2011年11月27日 (日)

台風被災のトラウマ

H23kouyou廻りのモミジの紅葉が始まった。


国道424号法手見トンネルは何時(いつ)通れるようになるのか。
路線バスは何時(いつ)清川に入ってくるのか。
応急措置の崩落場所は何時復旧するのか。
行政は相変わらず応えてくれない。

そんな折、12月から法手見トンネルが通れるようになり、路線バスもジャンボタクシーで乗り入れるという話が流れて来た。
公民館に真偽を訪ねると、住民の一番の関心事に他人事みたいな曖昧な返事。
行政ってそんなものかなあ、町長さん。


深夜、娘を迎えにみなべ駅まで走る。
いつもは妻が同乗するが今夜は宿泊客がいるので一人だった。
対向車が少ないだろうと島の瀬ダムの迂回路を通った。
案の定20㎞の間遭遇した車は市街地での4~5台だけ、3ケ所の崩落片側通行の信号にも一台の待ちも無かった。

新月、漆黒の闇、ヘッドライトの明かりだけ。
4㎞の迂回路を真っ暗な湖面に沿ってカーブをみぎひだり、狐か狸に化かされてダムの廻りを周回して抜けられないのではと錯覚するほどの孤独感。
ダム湖の霊が後部座席に座っているのではと背筋が寒くなり、思わずバックミラーを覗く。
ダムの明り、そして国道に出て安堵感。

帰路は芳養ルート、やはり山道での対向車は無かった。


台風12号の置き土産はトラウマ、或る人が語った。

山道を走っていると、ドライバーが皆悪者に思える。
速く行け、通行の邪魔だ、背後からの脅迫者である。
やさしい顔をした里の人がハンドルを持つと鬼と化す。
美しい峠道が牙をむく。

面谷トンネルにさしかかると、対向車の明りが恐怖心を煽る。
控えめな人も先を急ぐあまり正面からの脅迫者となる。
先の見えない、離合のできない峠のトンネルがゲームの場と化す。
素朴なトンネルが牙をむく。

強い雨が降ると、山々がどこか崩れて来るように思える。
水が重い、早く解放しろ、頭の上からの脅迫者である。
四季を楽しませてくれる景色が修羅場と化す。
山菜をもたらす野山が牙をむく。

弱音を吐くと、里の人達が笑っているように思える。
皆同じだ、何をほざくか、心の中の脅迫者である。
やさしく微笑む人達が三途の囚徒と化す。
安心のあるはずの里が牙をむく。

等々。


旧友たちは有難い。
消息を訪ねる電話が心をなごます。
激励の手紙が勇気をもたらす。
似非のふる里は傷だらけ。

台風被災のトラウマ、精神的外傷からの解放は彼方にあった。

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2011年11月16日 (水)

温故知新

Taiyamamou一年前に車検対応で交換したタイヤ、気が付いたら前輪の摩耗が始まっていた。
晴天の日を狙ってタイヤのローテーション、カーショップでやってもらうと15分で済むが、1時間の作業となった。
サイド部分の摩耗なので、カーブが多いせいだろう。
摩耗の始まったタイヤは後輪で頑張ってもらおう。
ローテーションの後は快適さが戻った。
前回3年、今回は1年半、国道崩落で連日山道をひた走る結果である。
後半年が限界だろう。
台風の後遺症はガソリン代だけでなく、タイヤ消費にも影響した。


Tiribetu暇にまかせて古い写真の整理。
35㎜フィルムやプリントをディジタル化するN社の機械。
フィルムのスリップやプリントに横縞が入るなどで2回も初期不良で交換した。
しかし、その後の作業は順調に、ネガフィルムやばらのプリントを大量処分できた。
数千枚を2GのSDに納め、パソコンで簡単にスライドショーができる。
めったに見ない古いアルバムを手軽に再生できるようになった。
作業を通して人生におさらいをさせてもらった。
さて何を学ぶか。

序にビデオテープもハードディスクに収納しCD化、ゴミの日に段ボールいっぱいのテープを処分した。
ビデオ再生機も過去の産物になってしまった。

この半世紀、技術の進歩でいろいろ媒体が変わりディジタルで小型化されたが、この先はどうなるのだろうか。

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2011年11月 8日 (火)

帰って来たお客さん

Nikonoensu相変わらず朝晩の送り迎えが続く。
国道の復旧は、ユンボ一台でのらりくらり。
それこそ地球の耳かきでいつ完工するのか見通しがたたない。
50日経って知事がやっとこの里を視察に来たと言う話が聞こえて来た。
工事を早めるように言ったとか言わなかったとか。
災害の全てが忘れ去られ、その生活が日常化しようとしている。

暗くなると山道には野生動物が餌を求めて出てくる。

猪の親子連れが3頭。
山側から出て来て、車に見向きもせず悠々とライトの中を横切る。

狸の夫婦。
藪から車道に跳び出し、車に驚いてもこもこのお尻を振りながら右と左に逃げる。

兎が一匹。
立ち止まってこちらをちらり、やわら急いで藪の中にホップステップジャンプ。

一番たちの悪いのは狭い山道を我がもの顔でスピードを出して走る若者(?)と言う動物かもしれない。

そんな中、ぼちぼちお客さんが戻り始めた。
輪留田さんは有田ICから美山を廻って走ってきた。
今回は一人。
宿泊記録は夫婦でと、あえて更新しなかった。
ふるさと道場で二胡の練習、それを傍で聞く和尚と悦に入っていた。

法事の食事のお客さん。
みなべICから島の瀬ダム迂回路を離合に苦労しながら上って来た。
でも清川に来てみて良かったと。

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2011年10月26日 (水)

卒寿そして永眠

Mirokunote『魅せられて 古木に刻む  弥勒の指(て)
     何を想うか 吾は吾なり』
 (松の古木、松明に使うそうだ)

母が他界した。
8月に緊急入院した時には父の命日(10月6)前後かなとの予感。
そこに台風12号の被害、(私の勝手な解釈だが)ころ合いを見なければと頑張ってくれたのだと思う。
見舞ってくれた兄姉によれば、その間、最近に無く元気だったと言う。

ある人の人生訓に、「90歳でお迎えに来たらそんなにせかさずとも良いと言え。百歳でお迎えが来たらこちらからぼちぼち行くと言え。」 とあったがそんなところか。

“紫音”を始めた時、記念の日本タオルを用意してくれ、お客さん用の作務衣も準備してくれた。
清川に滞在していた時は自ら作務衣を着て、我々の後ろで控えめにお客さんをお迎えしていた。
宿経営に素人の息子が何をしでかすか心配だったのだと思う。
その後も清川で一緒に住みたいという思いが伺われたが、知人がいない、周囲が急坂道である、医療施設が無いなどの諸事情もあり、在京の兄姉の世話で都会の老人ホームで余生を過ごすことになった。


卒寿のお祝い(10月2日)ができなかったので、葬儀場や僧侶によるいわゆる葬式は止め、お祝いを兼ねて身内でお別れ会を催した。
祭壇も質素に、棺を飾る物は遺影と花だけである。
孫や曾孫を含め30人ほどが出席した楽しい会となった。
これまでの感謝を込めて。

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2011年10月14日 (金)

災害から40日

Syuumei『咲きだせば なんのなんのの 秋明菊
    誰が言ったか ‘色あせる愛’』

見るからに保守的な花、控えめな蕾が頭を持ち上げて花を咲かす。
秋の庭にそれなりの華やかさと落ち着きをもたらす。


災害から一ケ月余、道路の復旧工事はそれなりに。
半年ほど経過した気分である。
その40日目に再び大雨が降った(総雨量188㎜)。

このひと月、みなべと田辺にしか行かなかったのに走行距離は2,300km。
通常月の3倍走ったことになる。

如何にして走行効率を上げるかが経済的課題だ。
芳養ルートの補修部分が夜間に舗装された。
僅かな距離だが走行に安心感が生まれる。
島の瀬ルートは芳養ルートに較べ2kmほど長い。
一方、ガソリン価格は、清川のスタンドは市街地のセルフに較べて10円強高い。
燃費とガソリン単価を気にしながら、山道を走る。

Hotemi3法手見トンネルを開通させるように努力してるようだ。
そうすれば迂回路は500m程度に短縮される。
ダムの対岸を走らなくて済むようになればストレスも解消されるだろう。

みなべから様子見に上がって来たお客さん、コーヒーを飲みながら、「狭い道の離合が怖かった。」 と。

法事の会食を頼まれた。
「仕出しできるかな。」 「仕出しはしてないんです。下のお食事処でしてますが。」 「“紫音”の食事が食べたいんで、そっちに行くわ。」 「ありがとうございます。」
この折、貴重なお客さんである。

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2011年10月 5日 (水)

秋もつるべ落とし

半月で気温が10℃下がった。
台風12号の後、猛暑から一気に秋になった感じである。

Kinmonga写真はキンモンガ。
栗の木の葉に珍しい、蝶のような蛾がいた。
冬支度なのか動きが鈍い。
第一印象は、黄色のベースに黒で大胆に線を描いた、モダンアートのように感じた。
調べたら個体によって黒地の黄紋が薄黄であったり、白であったり、或いは紋の形が異なったり、多様な種類がいるという。
雄、雌での違い、生息地での違いがあるようだ。


旅の宿“紫音”、休館して一カ月目、常連さんが二人、炭焼さんの家族三人が宿泊してくれた。
常連さんは大阪から高速道路をみなべICで降り、国道424号を通り、島の瀬ダムの迂回路を通って清川に入った。
一旦仕事から離れてしまうと、なかなかペースがつかめない。
休館が長引けば長引くほど営業再開は難しくなるのではと思い始めた。
しかし、久し振りに収入があると言うことで、水を得た魚のごとく、気力を込めて食事の準備にかかった。
娘の帰宅時間には、「迎えに行きますので留守番お願いします。」 とおまかせも。

Ⅰターンの炭焼さん、病気治療で一時清川を去ることに。
帰りしなに皆さんが、「料理美味しかったです。焼酎も。」  
「ありがとう。行ってらっしゃい。」 安らぎのひとときである。

Hukyukouji「島の瀬の迂回路、行けども行けども、長かったこと。」 夕方、久し振りに来た釣り船の奥さんが‘伊佐木’を持ってきてくれた。
お客さんが帰ったあとで残念だったが、我が家の夕食で刺身と塩焼き、残りは下処理して冷凍にした。
感謝である。

今年の清川天保神社の秋祭りは台風の被害で中止に。
10月30日、神事のみ11時に繰り上げて執り行うことにとなった。

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2011年9月28日 (水)

運転に現れる性格

Hotemi2国道424号法手見トンネルの崩壊現場(写真はMさん提供)
トンネル出口は左の土砂の真中付近。
島の瀬ダムの対岸道路への迂回路は田んぼの手前になる。

田辺方面へ行く県道清川・芳養線が境界にある面谷トンネルの先で陥没した。
通れるようになって僅か2日、また選択の余地なく島の瀬ダムの対岸道路を走らなければならなくなった。
その迂回路は約4㎞ある。(写真下クリック)

Simanose5見通しを確保するために道路際の樹木を伐採し、少しでも広くするためにガードレールを撤去し、更に10本以上のカーブミラーを新設して、徐々に走行の安全を確保しつつある。

娘の通学の路線バスが通れないので、毎日片道25㎞を送り迎えしている。
妻が運転してみたいと言うのでトライさせた。
数多い変化に跳んだカーブや離合の度合いがゲーム感覚的なのか、「私、この道好きかも知れない。」 と。
追って県道清川・芳養線は3日で復旧。


狭い山道を飛ばす人、若い女性も多い。
周辺の家にとっては普段は静かな道路だったところに、迂回する車がなだれ込んだのだから、通らしてもらってありがとうと言う気持ちで安全運転したいものだ。

離合するとき、笑顔で「お互い大変だなぁ。」 という気持ちを現わす人が少ないことに気がついた。
「わしは急いでるのに、何でこんなところで出くわすンか。」 「もっと、さっさとよけろや。」と言いたげな不機嫌面が多い。
車を運転していると自分が主人と錯覚するのだろうか。

追い立てるようにぴったり後ろにつく車、特に夜、カーブでヘッドライトで直後から照らされると、前方が見にくくなる。
対向車に出くわして急ブレーキとなると追突される危険性もあるので、車間距離は空けてもらいたい。

県道清川・芳養線は離合できない百メートルは超す面谷トンネルを通らなければならない。
真ん中の峠の部分が高くなっているので、反対から入ってくる車が分からないことがある。
後から入ってきてもガンと譲らない車、数台どうしになるとどちらがバックするか、しばらく暗闇で睨めっこである。

里の人は愛想が良く、優しい。
しかし、中にはハンドルを握ると鬼と化す人がいるのは寂しいことだ。

「狭くても道路が通じて良かったね。」 とは経験してない人の言うセリフ。
10日ほどで山道を1,000㎞走ったことになる。
ストレスもピークに、昨日今日、帰ってきて暫くは頭から血が引かない。
「私、この道好きかも知れない。」 と言った妻も2日でストレスの塊に。
 『朝と夕 山道行き来 ひもすがら』

法手見トンネルの開通、早期に気の効いた解決策が望まれる。


友人のブログ 山荘での一人暮らし (九州・久住でのオーガニックライフ) に旅の宿“紫音”の記事/台風12号が掲載されました。
      
只今、旅の宿“紫音”は休館中です。

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2011年9月20日 (火)

彼岸花・早松・紫苑の花

Sirohiganbana台風の被害が暦を忘れさせていた。

「彼岸花の蕾が伸び始めたなぁ。」 とコーヒーを飲みながら里の人が呟いた。
連想ゲームじゃないが、「そうか、早松(さまつ)の時期か。」
その翌日、俄雨に濡れながら、枝に刺した小振りの早松数個を届けて来た人がいた。(写真中)
やはり、季節感は忘れられていなかった。
旬の味をお客さんに差し上げられないのが残念である。

会社の先輩が、今の世は高度成長で浮かれていた時代のツケが廻って来たのかな、と言っていた。
自然にも安定した形態があり、過度に人手が加わるとそれに抵抗する力が働くのだろう。それが天災の繰り返しとなる。

Samatu23里の老人が60年振りの水害だと言った。
法手見トンネルは建設の時に水が出て、対策に四苦八苦したそうだ。犠牲者も一人出たと聞いた。清川内の国道改良工事が始まる今年に、その起点地域の住民が生き埋めになったのは単なる偶然だろうか。
梅パイロットの擁護斜面が崩れて、下の肥料工場を押しつぶした。ブログを見てメールしてきた人がいる。昔、そこに家があったが半世紀ほど前の台風で、土砂崩れで壊されたと言っていた。

10年くらい前に紀伊民報に投稿したことがある。「梅畑が数ケ所雨で崩れている。山の保水力が無くなったのが原因と思われるので、梅畑を開墾するときは役場に届けて審査を受けるようにしたらどうか。」という要旨だった。
“紫音”は梅パイロットを造成した時に土砂を切り出した平地にある。上り坂もその時に造った進入路である。ある時、元村長が野球場から見上げて「切り壁の地肌が気になっていたが、木が生えて目立たなくなって良かった。」と言っていた。今回崩れたのは、その切り壁に生えた木が大きくなって重みに耐えきれなくなったのも一因だと思う。今年の2回の台風で、切り壁が6ケ所が崩れた。北側の梅パイロットの擁護斜面も崩れ、“紫音"は3方向から身を剥がれた。‘天空の宿’となるのではと危惧している。


Sion23庭を草刈りをしていたら、紫苑の花が叢をなし誇らしげに咲いているのに気がついた。

『丈高き ことが淋しく 花紫苑』 (遠藤梧逸)
たまたま目にした本に載っていた句である。

旅の宿“紫音”は休館中です。
但し、勝手知ったる、リピータの方、知人の方で多少の御不自由に目をつむっていただけるのであれば、宿泊をお受けします。

 

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