2009年3月28日 (土)

携帯雑感

Tyuugakkou『家族割 買って与えて家族割れ』

中学校卒業と同時に、周りにならって要求され携帯を持たせたら、子供からすぐクレームがついた。
「iモードフィルターや時間制限、友達はかけていないよ」
「人は人じゃ」
その機能が話題になるたびに、家の中がぎすぎすし始めた。


子供にとって携帯はゲーム機であり、音楽プレイヤーであり、インターネット端末である。
手元にあるアミューズメントパークであり小宇宙である。
携帯のあらゆる可能性を探索し、自分世界を作り上げる。

ショップの販売方法に問題がある。
未成年者の利用に関して型どおりの説明はするが、売上を伸ばしたいがため対策に積極性は感じられない。
おまけに、こんな機能があります。月100円です。こんな機能もあります。月200円です。と子供たちを誘惑し、契約金額(利用金額)を膨らまそうとたたみかける。


親は携帯を電話の延長の通信装置としか思っている。
と言うか限られた機能しか使い切らない機械音痴である。
そこで何が行われているのか想像もつかない。
携帯にまつわる弊害や事件は親の自覚だけで防げるものではなく、運転免許証のように利用機能による年齢制限が必要かなとも思う。

その一方、既成概念で意見を言いすぎるのかという気もするし、悩ましい問題である。
時間が解決してくれるのを待つしかないのか。

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2009年3月21日 (土)

世相の反映?

Uritaniisi_2 『いち早く捨てたテキスト 後ろ髪 
         本人いたって楽観的なり』

里の受験生は全員希望通り進学校が決まった。
ぎりぎりの勉強、卒業直前まで目一杯楽しんだ中学生活。
謝恩会はとことん盛り上がっていたそうだ。


こんな成績で大丈夫か、気を揉むのは親だけか。
しかし、さすが発表当日は神妙だった。
だがそこは現代っ子。
 『発表の足そのままにドコモショップ 
            恩師いらいら朗報待つ』

保育所から12年、同じメンバーで兄弟のように育ったメンバーがそれぞれの高校に散ることになる。

写真は“瓜渓石(うりだにいし)”の盆石。
7~8年前、村の人がくれた原石を磨いたあと、工房に置きっぱなしだったが、柿の木を台座に馬目樫で作ったフクロウを添えて体裁を整えた。
“瓜渓石”はみなべ町西部に位置する新生代の泥岩層からジュノール(団塊)として産出する。回りの堆積岩より固く、磨くと滑らかな黒色の石の肌と変化に富む皺(しわ)で山水景が想い起こされ、かっては盆石として珍重されていた。

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2006年3月23日 (木)

(第十九話) 大きくなるということ

(続/浩然の気を養う) 
sizennotikara 子供はどんどん成長する、だが人間的に大きくなるとはどういうことだろうか。一般に体と精神構造は同じ速度で成長はしない。このアンバランスにどう立ち向かうかが本当の意味の成長なのだと思う。大きく見せたいという気持が強すぎると、化粧やファッションに、或いはお酒、タバコ、暴走族にと大人社会の表層に飛びついてしまう。真似事で済むのか虜(とりこ)になってしまうのか、いずれにしろそういう時期を乗り越えられる子供達は善悪の判断がきちんとできるということであり、社会的に悪いことをしでかす子供達は精神的に未熟なのだということは事実である。近年の犯罪の傾向をみても、大人になりきれない人が一見残忍だが動機は幼稚な事件を犯すケースが増えている。
甲子園球児やサッカーのスポーツ選手に不祥事が目立つのも、精神的成長のアンバランスが起因する。強くなることが優先され社会人としての教育がないがしろにされるからだ。その裏には親の欲目があり、英才教育の低年齢化がそれを助長する傾向にある。インターネット社会もそうだ。IT技術を持てば起業人としてひとり立ちできるような錯覚を与えている。ゲーム世界の延長で基礎教育もそこそこに投資家として儲けに走った人達で日本の経済社会が成り立つはずが無い。日本の企業を支えたのは、長期雇用契約に基づく継続的な社員教育が企業運営の根底にあったのを忘れてはならない。
幸いに清川小学校には子供達の社会性を重んじた教育が垣間見れる。カリキュラムのノルマを詰め込むのではなく子供達の理解度を検証しているようだし、テキストの外(そと)の活動も重視している。わが子も小学校の6年間清川の子として育ち卒業を迎えることになったが、その間に個人的にストレスを感じた時期があったし、学校のやり方に危機感を感じた時期もあった。ご父兄や先生方の一早い対応や努力で改善され、気持ちよく卒業できることになったのはありがたい。感謝!! 
“地図と絵画のコンクール”に6年生19名が力を合わせて作ったマップが特選になった。降って湧いた話ではなく、積み重ねの成果である。その自信が卒業文集を自分達の手で作ろうと言う気持にもつながったのだろう。そんなこといやだ、苦しい、でもやった、すごい、やればできる、と、一人だけでは決して得られない成果がホワーッとした気持として残る、そこに子供達が伸び伸び成長する、即ち、心が大きくなる糧(かて)があるような気がする。先日の雪の舞う中で開催された清川の駅伝大会に校内マラソン大会でブービーだった娘が選手に選ばれ参加した。葛藤はあったようだが挑戦しようという気持が勝(まさ)り走る気になったようだ。レースでは最後尾を走っていたが、「パパ、今日は速く走れたよ。お腹も痛くならなかったよ。」 と爽やかだった。
子供達が大きくなる、その責任は言うまでもなく親と子供達を取り巻く社会にある。いまその社会に使い捨て、無駄遣い、見栄、孤立化など都会の十数年遅れの現象が現れている。南部川村は合併して大きくなって町になった。しかし目の前の人参に飛びついたようなもので一年経っても将来を見越した政策が見えてこない。一般にこの手の足し算は表面的なボリュームは増やすが内容的な質は平均化され、総じて良い面は失われていく。都会化である。事件の多い、物余り貧乏の今日の社会を作り上げたのは高度成長期に浮かれていた我々親達である。その反動がいま現れていることを噛み締めて、子供達には地道にそして助け合って地域の特色を生かした生活をすることを教えて行きたいものである。島国日本の将来の生き方の原点がここ清川にあるような気がする。『櫃(ひつ)を買って珠(たま)を還す』ことがないように、また『山高きが故に貴(たっと)からず』である。

                                 <清川小学校雑木林原稿>

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2006年1月13日 (金)

こんな田舎でも

kisyuukun『安心』は消えていくのでしょうか。
“ きしゅう君の家”とは子供達の緊急時避難場所です。この制度は平成10年からあるのですが、更に最近の世の中の状況に合わせて清川でも保護者による下校時パトロールを始めました。
「清川の子は散歩中に出会うと明るく挨拶してくれる。」 と宿泊のお客さんが感心していたが世の中はそれを許容できなくなってきました。高速道路のインターができ龍神村への通り道として抜ける車も増え、清川だけはということにはならなくなってきたのです。“きしゅう君の家”は36箇所あり、新年早々、子供達はお礼とお願いを兼ねて一軒一軒回りました。

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